カンツィアン,エドワード・J/マーク・J・アルバニーズ『人はなぜ依存症になるのか―自己治療としてのアディクション』

カンツィアン,エドワード・J/マーク・J・アルバニーズ『人はなぜ依存症になるのか―自己治療としてのアディクション』(松本俊彦訳)星和書店 2013年 (Amazon)

概要

原書の情報は次のとおりである。

Khantzian, Edward J., and Mark J. Albanese. 2008. Understanding Addiction as Self Medication: Finding Hope Behind the Pain. Rowman & Littlefield Publishers. (Amazon)

時間がなくて本書をさらっと見ただけの状態でありながら(恐縮恐縮)、以下、書く。

本書の内容は松本による訳者まえがきに要約されている。以下に引用する。

ここには、カンツィアンたちの研究グループが唱え続けてきた依存症理論、「自己治療仮説 (Self-medication hypothesis: SMH) 」が、コンパクトかつ平易に書かれてあります。この仮説は30年以上前に提唱されたものではありますが、いまだに臨床的に重要な意義を持ち続けている、精神医学界では稀有な理論です。


彼らの主張を大胆に要約すると、次の2点になります。1つは、依存症と抱えている人は決して手当たり次第に「気分を変える物質」に手を出しているのではなく、自身の内的必要性に基づいて選択している、ということです。


もう1つは、依存症成立に必要な報酬は、物質がもたらす快感やハイな気分(「正の強化」)だけに限らず、主観的苦痛の緩和(「負の強化」)でも十分である、ということです。


そしてときには、どう考えても苦痛としか思えないような自己破壊的行動でさえも、それが「説明可能な苦痛」であるがゆえに、「説明困難な苦痛」から意識をそらすのに有効な場合がある、ということです。


(以上の引用は本書邦訳p.ivより)

コントロールされた苦痛への選好

本書において最も興味深いと感じられるのは次の点である。

上記の松本の記述にあるように、カンツィアンらは、「どう考えても苦痛としか思えないような自己破壊的行動でさえも、それが『説明可能な苦痛』であるがゆえに、『説明困難な苦痛』から意識をそらすのに有効な場合がある」という趣旨を主張している。これは第9章で展開されるものである。

この主張をどこまで敷衍してよいかは不明確だが、仮説として次のように述べることができるのではないか。

すなわち、人間にとって、自分の感じる苦痛に「説明がつかない」ということは、その苦痛の程度を極めて大きくブーストする場合がある、と言えるかもしれない。

もしそうであるならば、少なくとも公共の権力行使の場面でその権力行使に「説明がなされない」ということが大きな害悪だ、という考え方に、この仮説は力を与えるだろう。

これは、公権力の「説明」(しばしば「説明責任」を関係づけられる)が求められる理由として、「公権力について説明があることは、透明な議論を通じて、よりよい公共政策につながるのだ」という考え方以外に、「説明があること」のより直接的な意義を主張しうることを示唆する。すなわち、「説明がないと、しんどいから、説明して」という主張がなされうるのである。(あくまでオレオレ仮説。)

ネット/ゲーム/デジタルデバイスへの依存?

この本を含めて、依存症関連について少し調べたくなる理由があった。それは、とある場所で「スマホの害悪」について議論になり、「スマホ依存症」についても話題になったから、というものである。

しかしながら、本書でネット/ゲームやデジタルデバイスへの依存については具体的には書かれていない。関連があるのは次の部分である。

第11章で、嗜癖行動の中に「コンピュータ依存症」が含まれることを述べており、そののちに下記のように述べている。

なお私たちは、嗜癖行動もまた、苦痛な状態に対する自己治療のひとつのあり方であると信じている。

(本書邦訳p.132より引用)

この記述が示唆するのは、ネット/ゲーム/デジタルデバイスへの依存に自己治療仮説が当てはまると言えるかどうかについてのエビデンスは、薬物の場合に比べると、(少なくともこの時点では)乏しい、ということであろう。