スチュアート・マクミラン『本当の依存症の話をしよう』2019年

 

スチュアート・マクミラン(井口萌娜訳)『本当の依存症の話をしよう』2019年

 

概要

Stuart McMillen (http://www.stuartmcmillen.com/) の手によるコミックの邦訳。松本俊彦と小原圭司による解説文も所収されている。

コミックは2本収められており、1本目は "Rat Park"、2本目は "War on Drugs" である。
Rat Park (http://www.stuartmcmillen.com/comic/rat-park/)
War on Drugs (http://www.stuartmcmillen.com/comic/war-on-drugs/)

要点は次のとおり。

  • ラットによる実験から、次のようなことが示唆される(あくまで「示唆」)。すなわち、薬物依存症には、その個体が他者から孤立しているという要因が大きく影響を与えている、と考えられる。
  • 米国でニクソン大統領が採った、薬物使用撲滅の方針は、禁酒法のような失敗に終わった。それは、「依存対象物質を取り上げ、使用者を罰し、排除する」という方法の失敗を意味している。

解説文も含めて、依存症対策における、治療・包摂の重要性を、科学的根拠をもって、示している。高く評価されるべき本。

 

関連書籍・資料

私自身は当初、 Johann Hari の TED Talk (2015年)でこうした考え方に触れた。最近、確認のために、カンツィアンほか『人はなぜ依存症になるのか』(邦訳2013年)と松本俊彦『薬物依存症』(2018年)とともに、この本を手に取った。

これらの本の紹介を見ている中で、謎のAmazonブックレビューに出くわす。。。

 

惜しい

この本で気になって、かつ惜しいと感じたのは、次の点である。

松本俊彦による解説文の一部は、同じく松本『薬物依存症』(2018年、ちくま新書)第9章の文章とほぼ同じになっている。おそらくは、同じ原稿から再構成したものだと思われる。重なっていることが偶然とは言い難いと思われる箇所を挙げる。

『薬物依存症』の、
pp.280-282; pp.299-300; pp.303-305; pp.309-310; pp.312-314

もちろん松本自身の文章を再構成しているので、著作人格権上の問題はなさそうだが、『薬物依存症』の出版社(筑摩書房)からすれば、せめて元の出版情報を掲載してほしいところではないだろうか。。筑摩書房さんに許可取っている旨も一緒に記してもらえると、解説文の著者への敬意は高まるだろう。

あと細かいことかもしれないが次の点も触れておきたい。小原による解説文の中で、ギャンブル依存症からの回復プログラム(SAT-G)の効果に関する記述がある。この効果を測るなら、当然、プラセボとなるプログラムへの参加群との比較が望ましいのだが、それができていないことに注意したい。もちろん、そのような、プラセボとなるプログラムに割り当てられる患者への影響を考えると、倫理的に難しいこともわかる。「科学的根拠」をもって議論をすることの難しさである。

 

再チャレンジ

この本というより、依存症に関する議論全体についてであるが、もう1つ気になっているのはJohann Hariのことである。

Johann Hariの過去のplagiarismへの懸念があって、彼は評価されにくい、のかもしれない。

しかし、依存症を経験した人への偏見を克服することに意味があるように、Hariの過去の過ちによって彼への評価を変えてしまうという「偏見」も、克服する価値があるのでは、と思う。

この点は、バドミントンの桃田選手のケースなんかにも感じるところである。

 

インスピレーション

この本から私が得たインスピレーションは次のようなものであった。

「罪人」への厳罰主義・スティグマ・排除・追放は、(前近代的な)共同体にとって、そうした策に「よい」ことがあったとすれば、それは、進化論的なフレームワークで、「人を淘汰する」というメカニズムとして、かもしれない。いわば優生思想に近いものであるが、遺伝的な優劣をもとにした淘汰というより、「その共同体への個人の親和度」による淘汰だと言えるかもしれない。例えば、ある共同体の中で孤立しない・孤独感を味わわない個体は依存症になりにくいため、依存症になる個体は「その共同体には親和的ではない」個体であり、そうした個体が厳罰主義・排除によって、淘汰される、というメカニズムである。この際、排除・追放は、徹底した(場合によっては死を与える)ものになりえるだろう。

こうした原理は、個人を尊重してその存在を肯定するような「近代的」な思考方法とは相容れない。「近代的」な思考においては、依存症克服を目指す個人に対し、その治療を優先し、その個人の変化・成長を促す方策が親和的だと思われる。