児玉聡『功利主義入門』

児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学筑摩書房 2012年 (Amazon)

概要

本書は倫理学の入門書として、規範理論の1つの「型」である功利主義を解説したものである。著者は倫理学・政治哲学を専門とする研究者で、功利主義や生命・医療倫理を研究テーマとしているようだ。

文句なく良書。読んだのは2019年だったが、現在の新型コロナウイルスを巡る公衆衛生上の議論にも大いに関連している。

このエントリでは、総論的な感想を述べたのちに、私がメモしておきたい部分を列挙していく。

自分の倫理的?政治的?な立場を見直す

平易な言葉で倫理的ないし政治思想的な立場を(功利主義を軸として)解説しているので、私個人の立場を表現するための材料が得られた、と感じる。

私自身の立場は、次のような考え方となる。

まず第1に、「社会契約で、社会状態に関する評価基準を定める」というものだ。

第2に、そこで締結される契約の内容について、社会状態に関する評価基準(社会厚生関数の形状)として「ある程度」功利主義的なものが採用される、と私は予想する。功利主義の特徴とされる「帰結主義」「幸福主義」「総和最大化」のうち、「帰結主義」と「幸福主義」は、社会契約によって採用されるだろう。ただし、社会状態の評価は、「諸個人の得るもの」の単純な総和には必ずしもならない。つまり、「総和最大化」は必ずしも重視されないと思われる。

第3に、社会契約の中で、幸福主義のバリエーションとしては「厚生主義」が採用されうるだろう。これは、社会状態の評価基準を定めようとする思考が含意している。

ソクラテス的言動、「説明がないこと」の苦痛、高IQ者の苦痛

本書の冒頭に、ソクラテス倫理学的な主張を日常的に繰り返したために死刑になった、というエピソードが登場する。これは有名なものだと思うが、改めて想像してみて、次のような着想を得た。

このエピソードが意味するのは、日常生活においては、理屈っぽいような「ソクラテス的言動」が排除されるような圧力が存在しているということである。ソクラテス的言動は、「産婆術」という語が示唆するように、「質問する」「説明を求める」ことに重きを置くものだ。

一般に、自分が理解できない状況や考え方に接して、「説明がほしい」と感じるのは自然なことだろう。この点は、先にこのブログで触れた、カンツィアンらの著作(エントリ)からも示唆されている、ように感じられる。カンツィアンらが述べたのは、人間は、説明不可能な苦痛を逃れるために、説明可能な苦痛を受ける行為に依存しうる、という内容であった。

さらに、相手の説明が論理的ではないと感じて、それを理解できずに苦しむのは、高IQ者によりしばしば生じる現象だろうと推測する。高IQ者、特に言語性知能が高い者は、他者が発した説明の論理的非整合を見抜いてしまいやすいと思われるからである。

端的に述べると、「ソクラテスを死刑に追いやるような社会だから、高IQ者は苦しむ」という仮説を抱いている。

あ、でも、相手が準備できていないのに喧嘩ふっかけるのがいいとは思わんでな。。。ソクラテスさん。。。

メモ

以下は本書の各部分についてのメモである。

はじめに

pp.8-9

倫理には2つの学び方がある。
・特定のルールを学んで実践できるようになること。
 いわゆる「道徳教育」。
・ルールに批判的な検討を加えること。
 批判的思考による。
 倫理学ないし道徳哲学の主題。

pp.11-12

倫理学的な批判を、倫理学のフィールド以外で行なうのは危険である。
ソクラテスはそれをやりすぎて死刑になった。

※あとで考えたいこと:
ソクラテス的な言動によって排除されるの苦痛と、高IQ者の苦痛と、「説明がないこと」による苦痛は、つながっているのではないか。

p.14

批判的思考の意義は、既存のルールに根拠があるかどうかを理解できることにある。

pp.14-15

倫理学の理論体系、すなわち「型」の1つとして、功利主義を学ぶとよい。

第1章

pp.18-22

倫理的相対主義:絶対に正しい倫理などない、とする。
「他人の倫理観について批判するべきでない」という主張?
→「他人の倫理観について批判するべきでない」という主張自体が、特定の倫理的立場になっている。

pp.30-35

「自然に従えばよい」という主張の内実は、既存の慣習・慣例・伝統に従うべし、という主張になっている可能性が指摘される。

第2章

pp.54-57

功利主義の特徴として、以下の3つの要素を挙げられる。
帰結主義、幸福主義、総和最大化

帰結主義

帰結で正しさを判断する。
「結果主義」と言わないのは、「結果論」(結果で行為を正当化する)との混同を避けるため。
帰結主義でないものは、非帰結主義
帰結主義にもいろいろある。
 「誰かの好き嫌いや動機で判断する立場」もある。
 「行為が正しいかどうかは動機の良し悪しで決まる」という考え方もある。
 「帰結がどうあれ各人の権利を守ることが重要」という考え方もある。

幸福主義

人々を幸福にする行為が正しいをする。
幸福主義にもバリエーションがある。ベンタムは快楽説。それ以外に、厚生主義ないし福利主義と呼ばれる立場がある。これは、客観的な利益が保障されることが幸福だとする(第6章参照)。
幸福主義にとっては、例えば自由に価値があるとしても、それは内在的価値ではなく、道具的価値ということになる。 幸福主義でないものは非幸福主義。自由に内在的価値を認める立場など。

総和最大化

「各人を1人として数え、誰もそれ以上には数えない」(ベンタム)
利己主義ではない。公平性に配慮している。
これにより、「功利主義には分配的正義への配慮がない」と批判されることがある。

p.47

ベンタムは「共感・反感の原理」を批判する。
この原理は、自分の気に入った行為を正しい行為とするもので、その論者はもっともらしく見せるために、「自然の法」とか「良心」とか「永遠不変の真理」とかいうものを持ち出しがち。
これらには議論の余地がないので、こうした原理が採用されると、多数派が少数派に、あるいは権力者が弱者に、考えを押し付けることになる。
(これらは非帰結主義の例となっているようだ。)

p.53

「J.K.ローリングの例」
ローリングはハリーポッターシリーズを書くことで多くの人を幸福にするので、その命が他の命より優先して救助されるべき、という主張。
※これは「道具的な価値のある人」の人命を、他よりも重くみる、という態度になっている。
功利主義が平等主義的でなくなる(ある意味では「能力のない」あるいは「生産性のない」者が軽視されることになる)ケース、だと言えそう。

p.57

功利主義への批判として、次のようなものがある。
「無実の人を殺さない」「約束を破らない」「家族を大事にする」といった義務がないがしろにされかねない、というもの。

第3章

pp.66-69

ゴドウィンは、功利主義の立場から、「家族をひいきするな」「家族よりも、人類に役立つ(よい本を書く)人を助けろ」という主張をした。

第4章

pp.88-89

この章のまとめにあたる記述を以下で引用する。

功利主義は公平性を重んじるが、あらゆる状況において身近な人々に対する義務を考慮に入れないというわけではない。

むしろ現代の洗練された功利主義者は、身近な人に対する義務や約束を守る義務など、常識的な道徳的規則や義務が功利主義的に見て望ましい場合はそれに従って行為する。

しかし、そうでない場合、つまり、常識的な規則や義務が、功利主義的に見て一部の人を不公平に扱っていると思われる場合には、それを変革することを要求するのだ。

pp.80-82

現代の功利主義は、次の2つの点で洗練されている。

第1に、「間接功利主義」の立場をとる。すなわち、年がら年中、最大多数の最大幸福のことを考えている必要はない、とする。
その反対は、「直接功利主義」である。

第2に、「規則功利主義」の立場をとる。すなわち、道徳的規則や義務について、守ることで社会全体の幸福に貢献するようなものを、二次的な規則として採用する、という立場をとる。「二次的」と断るのは、功利原理が第一原理だからである。
その反対は、「行為功利主義」である。

pp.82-83

J.S.ミルの「他者危害原則」は、次のようなもの。以下は引用(原典は『自由論』)。

各人は他人に危害を与えないかぎり自由に行為することを許されるべきであり、たとえ他の人がある行為をすることが当人のためになると思ったからといって、それを当人の意思に反して押しつけることは許されない。

これは規則功利主義的である。
ミルが考えていたのは、功利主義の精神に則った道徳規則や法律をつくることである。

pp.84-88

規則功利主義も、公平性を重んじるところが功利主義的である。
すなわち、(規則において)対応に差をつけるのは、「道徳的に重要な違い」がある場合である。
この「道徳的に重要な違い」について、功利主義は既存の「常識」に挑戦することになりがちである。
例えば、異性愛と同性愛を同等に扱うか否か、動物の福祉を人間の福祉と同等に扱うか否か、といった点での議論がある。

第5章

p.93

この章では、個人の道徳というより、公共政策における功利主義的思考を検討する。

p.92, pp.96-100

「最大多数の最大幸福」をスローガンとする功利主義のもともとの精神は、「それまでほとんど無視されていた労働者、奴隷、女性など、多くの人々の幸福も等しく考慮に入れるべきだと主張する立場」だった。「少数派を犠牲にして多数派の幸福にする」という考えではなかった。
しかしベンタムの時代からすでに、「多数者の幸福のために一部の少数者が犠牲になっても構わない」と判断されてしまいかねない、という批判があった。それは改めてロールズによって指摘された。
こうした批判に対する功利主義の回答として以下の2つが挙げられる。
第1に、少数者を犠牲にしてしまうことは、長期的には全体の幸福にはつながらない、というものである。例えば政府への信頼が損なわれたりすることによって。
第2に、規則功利主義の立場から、二次的な規則によって少数者の犠牲を回避できる、というものである。
このように、洗練された功利主義においては、「少数派が犠牲になる」という批判に回答が準備されている。

pp.101-103

功利主義自由主義(個人の自由を尊重する)を支持しうる。
ただ、その理由は、自然権があるから、ではなく、あくまでもそれが長期的に見て社会全体を幸福にするから、である。
功利主義自由主義の特徴をまとめると:
(1) 目的手段関係:個人の自由の保障はあくまで個人と社会全体の幸福のため。
(2) 実証性:政策として、帰結がより優れたものを選ぶべき。
(3) 包摂性:どの人々の幸福も無視されるべきではない。

pp.103-104

功利主義を以下の2つに分類できる。 第1は、自由主義的な功利主義である。第2は、権威主義的な功利主義である。
以下ではこれらの例を公衆衛生の文脈で示す。

pp.108-117

権威主義的な功利主義者として、チャドウィックが挙げられる。
チャドウィックは、公衆衛生行政に関して、パターナリスティックな介入を主張した。
自由主義的な功利主義者として、J.S.ミルが挙げられる。
ミルは、個人の利益は本人が最もよく知っているので、公衆衛生活動の目的は「他人に危害を加えないようにすること」だと主張した。

pp.121-125

リバタリアンパターナリズム
選択肢の確保と自由な行動を旨としつつ、人々が無意識に一定の行動(例えば健康的な行動)に誘導されるように仕向けようとする。
その方策を「ナッジ」と呼んだりする。
自由主義への修正と見ることができそう。
ただし、リバタリアンパターナリズムの立場からは、強制的な介入を正当化しがたい。
※このあたりはあまり功利主義と関係あるように見えない。

pp.125-129

公衆衛生的介入の階梯:
人々の健康に関する行動について、全くの自由にさせようとするのか、それとも強制的に介入するのかについて、レベル分けをしたもの。
近年の英国での公衆衛生の議論において注目されている。
※このあたりはあまり功利主義と関係あるように見えない。

第6章

pp.139-143

幸福とは何か、について。ベンタムやミルは、基本的には快楽=幸福と考えた。
ベンタム:快楽の高尚さに無頓着だった。
ミル:快楽の質の違いを認めた。高級な快と低級な快を区別した。(以下引用)

満足したブタよりも不満足な人間の方がよい。満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい。

ミル:快の高級/低級の判定において、意見が割れる場合には多数決によって決めなければならないとも考えていたようだ。
- ただし、パターナリスティックにどれが高級な快楽かを押し付けようとはしなかった。
- 各人は自由に「人生の実験」でよき快楽を求めるべきだと考えた。
※「意見が割れる場合には多数決によって決めなければならない」というくだりで、突然公共政策の話になっている感があった。
※他方で、これは自分の立場に近い。

pp.146-147

「人のすべての行為は快楽を追求している」という命題から快楽を定義すると、内容空疎な定義になるだろう。
※陰謀変数の話になっていると思われる。

p.151

幸福感を抱いている状態と、本当に(客観的にみて)幸福な状態は、同一であるとは限らない。

p.153

選好功利主義:選好や欲求を最大限に充足させる行為が、功利主義的に正しい、とする。

pp.156-159

適応的選好の形成:(以下引用)

非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。

→選好で幸福・快苦が測れると言えるのかに問題が生じる。

pp.161-164

厚生功利主義:(以下引用)

功利主義者がすべきことは、諸個人の快楽や選好を満たすことではなく、諸個人の利益を最大化することとなる。

ここで、利益というのは、本人の意思とは基本的に関わりなく、客観的に決まるものとされる。
この立場では、「効用の個人間比較」の問題を回避できる。

しかし、人々の利益について真に客観的にリストを作るのが難しいという問題がある。
もっとも、この考え方は、政治レベルではかなりうまくいくだろう。この際、利益のリストよりも不利益のリストの方が合意が得られやすい。
→政治のレベルでの、著者の現在の立場。
※自分の立場に違い。

第7章

この章では、人間行動などの実証研究(主として心理学と脳科学)と、規範理論である功利主義との関係を述べる。

pp.172-174

スロヴィック論文 (Slovic 2007) : 心理的麻痺 (psychic numbing) についてのもの。
心理的麻痺:人は他者を助けようと思うものだが、困っている人が「統計的な数」で表現されると、無関心になる。
スロヴィックは以下のような実験を実施した。
大学生を3つのグループに分け、寄付額を観察する。
グループ1:援助を必要とする特定の個人に焦点をあてた情報を提示。
グループ2:援助を必要とする人々を統計的な数で示した情報を提示。
グループ3:上記の両方の情報を提示。
この結果、グループ1の寄付額平均が他の二者より多かったが、グループ2と3とでは差がなかった。
※明記されていないが、グループ3(特定の個人の情報も与えらえている)ですら、あまり寄付をしなかったので、「統計的な数の情報が『邪魔』をしている」という理解ができそう。

pp.176-178

スロヴィックは、上の結果を次のように説明した。
心理学・脳科学における「2つの思考システム」の議論では、人間の思考様態を「経験的システム」と「分析的システム」に分ける。
「共感」は、2つのシステムのうち「経験的システム」が司っているとする。
その上で、スロヴィックは、「統計的人命は『共感』に訴える力が弱い」とした。

pp.184-191

大雑把に言えば、功利主義は「合理的判断」を重視する。その限りで、スロヴィックが示したような実証的な知見は、功利主義的でない人間像を示唆していそう。
こうした知見に対して、功利主義はどう反応できるだろうか。これについて、いくつかの「功利主義からの議論」が検討される。
その中で、「理性的思考の義務付け」として、ゲイツ夫妻の財団の例が取り上げられる。この財団は援助対象を選定する際に2つの原則を掲げており、これは直観というより合理的な思考にもとづいていると言える。
このアプローチを広げるとすると、こうした「合理的」な判断を行なう人間を育てるために、どのような教育を施せばよいかが問題になるだろう。
社会心理学者のハイトはこれに悲観的で、ほんの一握りの人にしかこのような思考はできない、としている。

pp.193-194

マルクス・アウレリウス『自省録』の言葉で締められている。
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」
倫理学の実践の重要性を示唆している。